お花見の歴史|奈良時代から平安時代

3月から4月にかけて日本列島を鮮やかなピンク色に染めてゆく桜は、日本人にとってかけがえのない春の風物の1つです。

日本がまだ農耕民族だった頃から桜の下では神事として宴が催されており、豊作祈願を願ったのがお花見の始まりだと言われています。
桜の木は、中国やヒマラヤにも数種類存在するのですが、日本に最も多くの品種があることでも有名です。

そんな桜ですが、実は日本人が桜の木を愛でるようになったのは、奈良時代以降だと言われています。
なぜ、奈良時代の人々は桜に興味を示さなかったのでしょうか。

今回はお花見の歴史「奈良時代から平安時代」までをご紹介したいと思います。

奈良時代の桜とお花見の歴史

桜は梅の花と同じく、歌としてよく詠まれており、現存する日本最古の歌集「万葉集」には、桜と梅の花を合わせておよそ140首の歌が掲載されています。
しかし、当時は梅の花の方が桜よりも人気が高かったようで、梅の花が110首ほどに対し、桜は43首ほどしか読まれておりません。
その理由は、奈良時代は中国文化の影響を強く受けていたため、この時代に催されていたお花見は、梅の花が中心だったそうです。そのため、桜よりも梅の花の歌が必然的に多くなってしまったことが考えられます。

では、桜が現在のように人々から注目されるようになったのは、いつ頃なのでしょうか。
それは、平安時代の頃だと言われています。

平安時代の桜とお花見の歴史

平安時代に誕生した「古今和歌集」には、花という言葉は桜を表す単語として扱われるようになってゆき、梅の花よりも桜の花が好まれるようになってゆきます。
その理由は、平安時代中期から後期にかけて繁栄した優雅な貴族文化「国風文化」にあります。菅原道真の提議によって遣唐使が廃止されると、中国文化の影響が弱まり、仮名文字や女流文学、大和絵などが誕生し、日本古来のモノや風習などが大切にされてゆきます。
しかし、外交を断つことで日本独自の文化を発展させてゆこうというわけではなく、中国文化を踏まえながら日本の自然環境や土地柄、そして生活感情などを重視してゆくのが目的だったのではないかと考えられています。

その結果、日本在来種の桜が見直されるようになり、歌や娯楽などに桜が関わってくるようになったのです。また、紫式部作の長編小説「源氏物語」には、桜の下で催される宴の様子が描かれています。

日本で初めて桜の木の下でお花見を催したのは嵯峨天皇です。
彼は、812年に神泉苑にて「花宴」を催したと「日本後記」に記されており、831年以降は宮中に場所を移し、天皇主催の定例行事として行われるようになります。
そして、いつしか広大な敷地を有する貴族たちは庭に桜の木を植えて、観賞するようになってゆくのです。

今回は奈良時代から平安時代にかけての桜の在り方とお花見の歴史についてご紹介させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか。
中国文化の影響が強かった奈良時代では、日本に古くからある桜の木よりも中国から伝わった梅の木を愛でるのが王侯貴族の嗜みであり、遣唐使が廃止された平安時代中期になると国風文化の影響によって桜の木が注目を集めるようになったというのは驚きですね。
日本と中国の文化を絶妙に融合して誕生したお花見は、この後どのように変化して行くのでしょうか。
次回はお花見の歴史「室町時代から江戸時代」についてご紹介します。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする