七夕とは|七夕の由来や伝説

ナツメ漱石俳句集に「別るゝや 夢一筋の 天の川」という歌が掲載されています。
この歌は漱石自身もどんな意味か分からず作ったと述べており、無意識に詠んだと言われている不思議な句です。

天の川は、銀河系の円板部の恒星が天球に投影されたものであり、数億を超える微光の恒星が天球の大円に沿って帯状に見えることから「銀漢」や「天漢」とも呼ばれています。

この天の川を挟んで琴座のベガと鷲座のアルタイルが相対しており、ベガを織姫星、アルタイルを牽牛星と呼び、この2つの星が7月7日の1度だけ河を渡って会うという伝説はとても有名です。

日本ではこの日を「七夕 (たなばた)」と呼び、3月3日の桃の節句や5月5日の端午の節句と共に五節句のひとつとして奈良時代の頃から行われています。

ですが、当時の七夕行事は現在のものと大きく異なり、笹竹に短冊や提灯や屑籠、投網といった七夕飾りを飾ったりはせず、厳かな行事だったと言われています。

そこで、今回は本来の七夕とはどのような行事だったのか、現在の七夕スタイルになったのはいつ頃からなのかについてご紹介したいと思います。

七夕とは

七夕とは、人日・上巳・端午・重陽と同じく中国から伝わった節句のひとつです。
これらの節句は五節句と呼ばれ、奈良時代の頃に遣唐使たちによって中国から伝わった文化です。

現在行われている七夕行事は、古代中国にて女の子の手芸や裁縫の上達を祈願した「乞巧奠 (きこうでん)」という行事と日本で古くから行われている祖霊に豊作を祈願するお祭りなどが習合したものだと考えられています。

この乞巧奠については、現存する中国最古の歳時記である「荊楚歳時記」にて詳しく記述されており、牽牛と織姫が出会う夜に婦人たちが7つの針の穴へ美しい五色の糸を通し、庭に捧げものを並べて針仕事の徐龍を願ったと言います。
このことから、当時から牽牛と織姫伝説と乞巧奠は密接な関係であることが分かります。

さて、遣唐使たちによって中国から伝わった牽牛と織姫伝説や乞巧奠は、当初宮中や貴族のあいだでのみ行われていました。
特に宮中では、清涼殿の東にある庭にて、1枚の? (ひさぎ)の葉に金銀の針を7つ刺し、美麗な五色の糸を寄り合わせたものを穴に通します。そして、庭へ敷いた筵 (むしろ)の上に机を4脚並べ、桃・梨・茄子・瓜・干し鯛・鮑・大豆など旬の野菜や果実、縁起の良い食べ物をお供えし、一晩中香を焚いて御灯明 (みあかし)を捧げ、楽を奏でて牽牛と織姫が出会うことを祈ったそうです。
その際、「七箇の池」と呼ばれる水を張った7つの盥 (たらい)を飾り、水面に映る星々を愛でていたとも言われています。

奈良時代に行われていた七夕行事は、日本最古の歌集「万葉集」にも多数掲載されており、万葉集を編集した大伴家持は「棚機の 今夜あひなば つねのごと 明日をへだてて 年はながけむ」と歌っています。

その後、遣唐使が廃止され、唐の文化が弱まると優雅な貴族文化の国風文化が誕生し、古来より日本に伝わる「棚機津女 (たなばたつめ)」の伝説と合わさって新たな七夕行事が誕生します。

軍記物語のひとつ「平家物語」には、当時貴族たちのあいだで「天の川のしずく」と呼ばれる里芋の葉に降りた露を集めて墨をすり、7枚の梶の葉に歌をしたため、文字の上達を祈願したことが記されています。

「俊成卿女」や「俊成女」と称される藤原俊成女 (ふじわらとしなりのむすめ)は、当時の七夕行事を「たなばたの とわたるふねの 梶の葉に いくあきかきつ 露のたまづさ」と歌っています。
この歌から、平安時代では、歌を書いた里芋の葉を7月6日に笹竹へ飾り、翌7日の未明に川や海へ流すのが一般的だったことがうかがえます。

その後、時代は移り変わり、徳川家康公によって泰平の世が訪れると、七夕行事が庶民のあいだでも行われるようになります。
これまで戦乱の世が続き、庶民は満足に勉学を学ぶことができませんでした。
しかし、江戸時代になると、学問や稽古を教える寺子屋や手習所といった初等教育機関が誕生し、素読や算盤、謡曲に裁縫など様々なジャンルの学び場が登場してゆきます。
そして、手習いごとをする人々や寺子屋へ通う子どもたちが増え、いつしか星々に上達を祈願するようになってゆき、7月6日の夜に願いごとを書いた短冊を笹竹へ飾り、7日に川や海へ流す「七夕送り」を行っていたそうです。

現代の七夕は、江戸時代に庶民のあいだで行われていた行事に少しアレンジが加えられたものとなっており、笹竹に願いごとを書いた短冊だけではなく、巾着や紙衣、千羽鶴などを飾り、川や海へは流さず、神社でお焚き上げを行ってもらったり、白い紙に包んで可燃ごみとして処分するのが一般的となっています。
また、願いごとの内容も多種多様になり、短冊の色彩もカラフルなものが増え、華やかで賑やかな行事となりました。

今回は本来の七夕とはどのような行事だったのか、現在の七夕スタイルになったのはいつ頃からなのかについてご紹介させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか。

今と昔とでは七夕の過ごし方が全く異なるため、驚かれた方も大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
現在でもほとんどの神社では、7月6日の夜から7月7日の早朝にかけて伝統的な神事が執り行われています。なぜ、この時間に行われるかと言いますと、夜明けの晩 (7月7日午前1時頃)は、天頂付近に主要となる天の川・牽牛星・織姫星の3つが現れる時間帯であり、最も見頃な時間帯となっているからです。

ただ、新暦となった現在で丁度七夕は梅雨シーズンですので、曇っていて見ることが出来ないということも多々あります。
ですが、七夕の日に降る雨は縁起が良いと言われておりますので、おりひめ様とひこぼし様を見ることはできませんが、短冊に書いた願いごとは彼らに届いておりますので、今年も七夕行事を家族や恋人、お友だちと共に楽しんでみてはいかがでしょうか。

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